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2012年9月20日 (木)

南無阿弥陀仏  ということ

「南無阿弥陀佛」ということ

 私たちは家族や友人など様々な人たちと関わりあいながら生活しています。そこでは怒ったり、泣いたり喜んだり様々な感情が起こります。

 私は結婚して10年になりますが、結婚して感じたことは、自分自身こんなに怒りっぽかったのか、ということです。一人で生きているときは何をしようがある程度自分の思い通りになります。しかし結婚して妻と一緒に生活するようになると物事が自分の思いどおりになりません。子供がいると尚更です。何事にも妥協点を見出さなくてはいけなくなります。当然のことです。しかしそのことにイライラしてくるのです。なんで俺の言うことが分からんのかと。

 人間には「我」というものがあります。「我を張る」という言葉がありますが、皆、多かれ少なかれ「我」を張りながら生きています。 考えてみますと、その「我」というものが自分の価値基準、物差しになっています。ですから妻にしろ子供にしろ、自分の物差しから外れた言動をされると頭にくるわけです。それぞれ個人の物差しがあるということは頭では分かっているつもりですが、感情は正直です。私が怒りやすいということは、私自身の我が強いことの証明だったのです。

最近「自分を信じてがんばれ」という言葉をよく耳にしますが、これはまさに自分の「我」というものが価値基準の中心にある言葉です。自分を信じて頑張ることの出来る人は良いでしょう。しかし、自分の拠り所としている「我」というものが何かのきっかけで折れてしまった時、他に拠って立つところが無くなり、生きる希望を失ってしまうということはないでしょうか。このことは最近の自殺の多さと無関係とは思えません。

  ここでお念仏、「南無阿弥陀仏」について考えてみます。南無阿弥陀仏ということは阿弥陀様の本願に南無する、ということです。本願とは一切衆生を救わんとする阿弥陀様の願いです。その願いを信じ、自分の物差しを捨てて一切を阿弥陀様にお任せするということです。信じるといっても無理やり信じ込むということではありません。親鸞聖人は私たちが努力して本願を信ずるわけではなく、信心は阿弥陀様から賜ったものだと教えられます。

本当に信じるものは「自分」ではなかったのだと、そのことに深く頷けたとき、個人個人の小さな「我」を超えた本当に豊かな世界が大きく広がるのでしょう。私は今、このことがお念仏の教えのとても大切なところだといただいております。

この法話は、東本願寺真宗会館の「テレホン法話」(9/1~9/15)でお話ししたものです。合掌

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コメント

南無阿弥陀仏の意味を初めて知りました。
深いですね。

投稿: めぐみ | 2012年9月23日 (日) 13時38分

ナマ・アミターバ、中国に伝わり、南無阿弥陀仏。
大日如来の救済のフォームが、五智如来曼荼羅として表されている。

投稿: 疲れたサラリーマン | 2015年10月21日 (水) 02時18分

昨日、2018年3月23日、サガミ典礼の佐藤家のお通夜に参加しました。そのときいただいた法話が,とても心に響きました。東本願寺の門徒会館?に書かれている言葉、、私たちが亡き人たちを思うように,,亡き人も私たちのことを,思っている,,だったでしょうか、、。今までに亡くなった方(私の両親)、昨日は義兄、、ですが、,などなどのことを思い出し,涙を禁じ得ませんでした。正直申しまして,浄土真宗のお坊さんにいい印象がありませんでした(すみません)。開き直っちゃってるというのでしょうか、、本願誇り、,とでもいうのでしょうか、、。そんな思いをもっていた私ですが、,そんな思いをもったことを申し訳なく思いました。心に響くお話で、ありがとうございました。聞法の会もあるとか,みました。少し遠いのですが,是非伺いたいと思いました。50代くらいのご住職様、,副住職か,住職かはわからなかったですが,,本当にありがとうございます。もう少し親鸞さまの勉強いたします。

投稿: 福田  満 | 2018年3月24日 (土) 13時27分

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