2011年4月11日 (月)

千葉 泉先生

大阪大学の教授 千葉泉先生からメールを頂きました。 先生は今回の震災に当たり自らできることは何かと考え、歌を作られました。 その歌詞を今回は紹介したいと思います。 「それでも桜は咲く」 (作詞作曲:千葉 泉)  1.変わり果てた街並み 過ぎると そこは薬師堂 倒れた灯篭のそばに お地蔵さま 一人  穏やかな微笑みの その 向こうには 薄紅のつぼみたたえ しだれ桜 ひっそりたたずむ  それでも桜は咲く 大地に 根をおろして きびしい冬の日々にも 新たな芽 育みながら  それでも桜は咲く 寒さに じっと耐えて 春の訪れ告げる そのいのち 続くかぎり 2.雪に埋もれ しばれる 北のくにでは 長く 険しい 道のり 続くけれど  どんなに厳しい 冬でも かならず 終わり 来るから 春を 夢見ながら この胸に 希望 育てよう  それでも桜は咲く 大地に 根をおろして きびしい冬の日々にも 新...

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2010年12月20日 (月)

大分寒くなってきました。

昨日久しぶりに近所を散歩していると、途中草むらがガサガサしているので、注意してみると、なんとリスがいるではありませんか!びっくりしました。飼っていたのが逃げたのでしょうか? そういえば先日は、その近くの池で瑠璃色のカワセミを見かけました! しかし、注意して周りをよく見てみると面白いことがあるものです。 ところで、 前回紹介した東大の安冨歩さんが、東大東洋文化研究所で親鸞ルネサンスを立ち上げられます。親鸞を研究するだけでなく、親鸞で様々な問題を研究していくという画期的な試みです。親鸞仏教センターも協賛します。

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2010年9月 8日 (水)

安冨歩さんとお会いして

先日親鸞仏教センターの研究会で、東大の東洋文化研究所教授の安冨歩さんとお会いしました。氏は、現代の人々の生きづらさの根源をハラスメントという概念で捉え、様々な角度から、それを解決しようとしています。その思索の中で、親鸞の念仏の思想がハラスメントの解決に役立つのではないかということを考えてらっしゃいます。とても刺激的な研究会でした。 いま、いろいろな分野の方が親鸞の思想に引き付けられているように感じます。 それは、なぜなのでしょう。そこにはやはり、一人の人間としての親鸞が見えるからなのかもしれません。私たちと同じように悩み、苦しみ、その中から絞り出されてきた思想が親鸞の念仏なのだと思います。だからこそ身近なものとして、共感を持って受け入れられているのかもしれません。  合掌

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2009年12月16日 (水)

宿業

私の家の近くに丸木美術館という小さな美術館がある。そこには、日本画家の丸木位里、俊夫妻の「原爆の図」が展示してある。丸木夫妻は広島の原爆で肉親や知人友人の多くを失い、そしてその原爆投下直後の惨状を1950年から30年余りに渡り「原爆の図」15連作として描き続けた。先日、その絵のことを思い出し、30数年ぶりに丸木美術館を訪れた。「原爆の図」の前に立つと、本当に圧倒された。原爆投下直後の凄まじい状況が身に迫ってきて鳥肌が立った。その地獄の様は人間の仕業とは思えない程である。しかし、原爆を創り出したのも、それを広島や長崎に落としたのも、戦争で中国大陸へ進出し、多くの人々の命を奪ったのも、自分と同じ人間なのだ。 歎異抄13章で親鸞聖人は人間の「宿業」ということを問題としている。「宿業」とは、現在存在している自分を、自分たらしめているものは無数の背景や条件であり、そのことに気付き、受け止めるというこ...

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2009年3月17日 (火)

覚悟

大分春らしくなって来ました。庭の梅の花は満開で、近所の公園の桜のつぼみもふくらんで来ました。花粉もたくさん飛んでいます。 先日、親鸞仏教センターで、国立環境研究所の西岡秀三氏を招いて研究会を開催しました。氏は、2050年にCO2排出量を70%削減した低炭素社会、そして持続可能な定常化社会を実現させる可能性を提示しています。 お話を聞かせていただき、感じたのは、産業革命以降人類がしてきたことは本当に正しかったのかということと、今意識を変え、CO2削減に取り組めばまだ間に合うかもしれないということです。 人は見たくない現実は根拠のない楽観でやり過ごそうとしてしまいがちです。現実を見つめることはある意味「覚悟」が必要です。 覚悟を持って現実を見つめて対応していくことが難しいのは、自分の身の現実を見つめることが難しいのと同じです。 何の問題でも、それが本当に自分の問題になっているのかどうかというこ...

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2009年1月22日 (木)

つぶやき

子供2人と妻が次々とインフルエンザに罹り、元気なのは私だけになってしまいました。 特に息子の症状が重く、夜はかなりうなされていました。夢か幻覚みたいなものを見るみたいで、うなされながら何かをものすごく恐れ、怖がっていました。翌朝彼にそのことを尋ねると、家が揺れていたのだそうです。異常行動はインフルエンザ本来のもののようですが、薬によってそれが増幅されるのかもしれません。しかし、同じウイルスに感染しているにもかかわらず、娘と妻は割と重症にはなりません。なんだかやっぱり女は強いな・・・などと思ってしまいました。(笑) 家族が病気になるとほんとに心配ですし、自分の動きも全く取れなくなってしまいます。寝たきりの方を抱えている家庭などは本当に大変だろうと思います。 生活していると現実の色々な問題がどんどん迫ってきますから、それに対応するのに右往左往し、状況に翻弄されているだけで時間が過ぎて行きます。...

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2008年12月27日 (土)

仏教の学び

先日京都の本山(東本願寺)に行ってきた。全国から本山へお参りに来る方々と、同朋会館(宿坊のようなところ)で2泊3日を一緒に過ごした。皆で阿弥陀堂にお参りし、その後清掃奉仕や、講義、座談会などをとおして親鸞の教え学ぶ日程だ。 今回は、教導の先生から「観無量寿経」のお話があった。観経は釈尊が生きた時代、「王舎城の悲劇」という実際に起こった事実を伝えている。それは阿闍世という王子が自分の出生の秘密を知り、父である国王、頻婆娑羅王を恨み、幽閉し最後には殺してしまう。さらには夫である国王をかばった母の韋提希夫人をも幽閉し殺そうとする。親が子供を殺そうとし、子供が親を実際に殺してしまうという悲劇が描かれている教典だ。現代の社会でも、親が子供を殺し、子供が親を殺すという同じような事件は、新聞を開けばすぐに目に入ってくる。 この経典を学びながら、改めて思ったことは、仏教の学びというのは知識ではないというこ...

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2008年11月19日 (水)

金子勝さんとおあいして・・

先日、親鸞仏教センターで、慶応大学経済学部教授の金子勝さんをお呼びして研究会を開催しました。先生には、現在起きている金融危機と1929年に起きた世界恐慌との類似点、相違点など、グローバル化経済の状況を歴史という観点からお話していただきました。興味深かったのは、ひとつの理論を突き詰めていった結果は、その理論の正反対のものによってしか救われないという指摘でした。確かに共産主義もそうであったし、市場万能主義のアメリカが銀行などに公的資金を注入するという現状もそうです。皮肉なものです。また先生は真宗の可能性に対してもいくつか指摘してくださいました。さて、真宗がというより、私自身が出来ることは何なのか、考えさせられました。 合掌

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2008年9月29日 (月)

いのち

聖路加病院の日野原重明さんの「いのちのおはなし」という絵本を読みました。私は仕事柄、「いのち」ってなんだろう、といつも考えているのですが、日野原さんは絵本の中で小学生のみんなに向かってこう言います。「いのちは、きみたちのもっている時間だといえますよ。」。いのちは、未来の時間であるとい言うのです。いのちということは、いろいろな言葉で表現できると思いますが、ひとりひとりの持っている時間ととらえるのもなるほどなと思います。 またいのちは、関係性だともいえるでしょう。一人の人間が生まれてから今まで、どんな人と巡り合いどんな思いを持って関わってきたのか、今まで、そしてこれからの関係性すべてをいのちは要素として含んでいると思います。そう考えてみると、いのちは厚みがあり豊かな本質を持っていることに気が付きます。  合掌

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2008年8月24日 (日)

猿滑りの花

先日御門徒のお宅にお参りに行った時、庭に淡い紅色がとても鮮やかな綺麗な花が咲いていました。名前を尋ねると、「猿滑り」の花だということです。43年生きてきて猿滑りの花をじっくり見るのは初めてでした。近所を歩く時、気をつけて見てみると、結構庭先に咲いています。しかも驚いたことに(?)お寺の入口でも小さな木ですが、可憐な紅色の花を咲かせているのです。灯台下暗しとはまさにこのことです。何気なく生活していると、自分の身の回りのものでも見逃していることがあります。見ているようで見ていない、ということです。日常、聞いているようで聞いていないということもよくあります。 日常の出来事に対して、“丁寧に接する”と生活が豊かになるなと実感した次第であります。合掌

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